だから好きだってイったじゃない!

ラブドリームハピネスッ

推しのFCイベでファンであることを許されて泣いた話

ファンとはなんだろう、と考える瞬間がある。追いかけ方に独特のネットリ感があるので自分のことをオタクと自称することが多いけれど、広義で言えば私も1人のファンだ。ファンは11人の心持ちがどうであれ、存在自体が推しの枷になる瞬間がある。応援してくれる存在であり、活動の糧であり、枷になったりガンになったり、活動の種類やアーティストの心持ちひとつとっても、私たちの存在は意味を変えたり変えなかったりする。


私たちの応援が、100%その人のためになるとは限らないし、歓迎されていない瞬間や応援の仕方は必ずある。少なくとも私は常に何かのファンでありながら、以前からその存在には少し穿った見方をしていて、応援する対象とは心の距離を置くことが多かった。本気で応援しても、本人は望んでいないかもしれないというネガティブを拗らせていたのだ。


話は戻り、現在の推しであるEXILE TAKAHIROは、ファンが敵に見えたことがあると話した。オーディション以降、常に一段が高すぎるステップアップを求められ、グループの看板として漠然とした大きな存在に試され続けていたであろう推しのこの言葉は、最初に目にしたときからずっしりと私の頭に溶け込んでいる。


ここで一つ考えるのは、私は推しに受け入れてもらいたいのだろうか?という点だ。推しは応援されたくない時もある、ファンは心の底からは歓迎されないのが前提だ、という予防線を張るのは、自分の応援を受け入れ欲しいという気持ちの裏返しなのかもしれない。


推し活や応援とは一種、コミュニケーションのようなものだと思う。距離が近ければ近いほどその意味は強くなり、地下ドルだったりコンセプトカフェの店員だったり、直接会えるような関係性であれば、それは相互のコミュニケーションに成り得る。しかし、ドームクラスのアーティストという存在との関係であれば、話は別で、コミュニケーションは一方的となる。アーティストの存在が大きければ大きい程、ファン11人の存在感は希薄になり、透明な概念のようなものになっていくような気がしていた。


直接話したこともない、それでもTAKAHIROさんの歌が好きで演技が好きで、ファンと接する姿が好きで一方的に応援させていただいていた。これまで彼を推して一年ほどそうだったし、これからもそうだと思っていた。

しかし、ファンクラブイベントとされた『EXILE TAKAHIRO道の駅2019』で、私は頭を殴られた。ドームクラスのアーティストの公演でありながら、「推しとコミュニケーションを取っている、ファンであることを許されてる」二階席の一番端っこにいた私は確かにそう感じたのだ。前置きが長くなったが、これは残すところ1公演となった推しのFCイベントに通ったオタクが、推しにファンであることを許され(たと勝手に思って)、涙を流した出来事についての日記である。




道の駅追いかけて全国行脚(『TAKAHIRO 道の駅2019で全国行脚する限界オタクの備忘録1』https://togetter.com/li/1409721)をして、はや3ヶ月。7月下旬から始まった道の駅も残すところあと数公演となり、わたしも残すところ1公演の参加となった。増えていく半券を見ながら、寂しい気持ちと温かな思い出が両方溢れる。ライブはもちろん、さまざまな観光地を巡りながら回った道の駅の遠征旅行は本当に楽しかったのだ。沖縄のファイナルが終われば、きっと私は未来の話をしたくなるだろう。その前に、この感情にラベルを貼らなくてはと思った。


時は、114日、愛媛公演での出来事だった。前々日の三代目の名古屋ドーム公演後に夜行バスで徳島に入って道の駅の徳島公演に参加し、翌日早朝から愛媛に移動するという相変わらずの限界遠征で私は愛媛公演の会場に足を踏み入れた。


最後の先行で取った座席は2階席の中で1番後ろだったが、行けるだけで嬉しかった。FCイベントという形式でトークも多く、9回目の参加でもずっと新鮮な気持ちでいられた。既に10回近く聴いたセットリストも、ホールによって響き方がまったく異なるし、本人が「歌い続けた方が喉の調子が良い」と話していたようにTAKAHIROさんの歌声も常に進化を続けていると強く感じた。道の駅はバンドメンバーやスタッフからの愛も感じる素晴らしいイベントだ。


彼は観客一人一人に届くように、丁寧に丁寧に歌を歌う。歌そのものや、歌うことへの敬意すら感じるほど、歌唱する姿が美しいのだ。歌っていないときの推しの顔はもちろん、歌っているときの推しの顔は最高だ。そう思いながら双眼鏡を覗く私に、愛媛公演では普段とは違う感情が生まれた。真上の正面のような座席で、いつもとは異なる視点だったせいだろうか、TAKAHIROさんの歌う姿を俯瞰で見ていたら「ファンになる前にテレビでみてた人だ!!その人のライブに今いる!?」と突然脳がバグって心臓がドキドキした。遠い人が近くにいる。


頭がバグったまま、「すごい人のファンになったんだなあ」と思ったら急に涙が止まらなくなった。


そしてこの日、会場の中で誰よりも後ろにいたというのに私は彼が目の前で歌っているような錯覚を覚えるほど、歌がぐさぐさと心の柔らかい場所に刺さったのだ。アンコール前に「泣きすぎて死ぬ」とタオルで顔を擦ってる私の横で、同担の友人もまた「今日は本当にやばい」と滲んだ目を擦っていた。この日の歌声は確かに後方にいる私たちに届きすぎなほど届いていた。


そして愛媛公演が終わり、好きだなと思う気持ちがどんどん溢れてきた。ドキドキした。この人のことを応援したいと、これからいく先を見てみたいと強く思った。語彙力を失ったオタクなので、この気持ちに名前はつけられない。ただひたすら敬浩さんが好きだと感じた。同じような気持ちを抱えた友人と夜の松山の街を歩きながら「私たちの推しには伸び代しかない」という話をしたのを覚えている。次はなにをしてくれるのだろう、という期待や興味が止まらない。そういった感情をまとめてぎゅっとすると、好きというシンプルな気持ちになる。


そして私はこの後、愛媛公演を反芻しながら「推しとコミュニケーションが取れてしまった」などと考えたのだ。もちろん直接話したわけではないし、最前で目が合ったわけでもない。使い古された世迷言のようなものだけれど、私は確かに歌から彼の気持ちを受け取った。そして、ファンクラブイベントというステージで客席と交流しながらリラックスした笑顔を見せ、当時は口に出来なかったというスランプの話を過去として話したりする姿に、「あ、応援していいんだ。ファンって透明じゃなかったんだ。ちゃんと力になることあるんだ」とストンと付き物が落ちたような気がした。


そして、どこかの公演で、彼はさらりと私たちに向かって「ファミリーだ」と言った。EXILE TRIBEFC名とかけた何気のない言葉だけれど、ファンという存在に、何か預けてもらえてる部分があるんだなと思ってまた泣いた。


ステージとこちら側には透明な何かがある。私はこれまでそれを、ぶ厚い壁やベールのようなものだと思っていた。でも実際には客席とステージをさらにキラキラと輝かせるための、薄いフィルターのようなものなのかもしれない。


どうにも性分が向いておらず、応援が力になる、なんて1番信じてない言葉だった。それをぶん殴ってくれたのは、TAKAHIROさんの歌と、ステージの上でのリラックスした姿だった。心を開いてないのは自分の方だったんだなあ、と感じつつ挑んだ熊本宮崎公演では、さらに新鮮な気持ちで公演を楽しむことができた。


あえてこの言葉を使うと、客席からのを彼はちゃんとステージの上から同じような何かで返してくれる。ファイナルを迎える前に、それに気づくことができて本当によかった。オタクとしての、第二の自我の目覚めである。


私は今までもこれからも、EXILE TAKAHIROさんを推させていただいております。推させていただいております!!!!